竹中道典。1957年(昭和32年)京都市生まれ。
小学校の高学年の時に、両親にスポーツサイクルを買ってもらい、以後自転車に乗る楽しみを享受する人生を時には快走し、時にはゆっくりと走っております。
中学生の頃は京都の北山一帯を走り走行したルートを地図の上に赤いペンで塗っていくのを楽しみにしていました。あの頃はまだ未舗装路も多く愛車のタイヤサイズは26×1-1/2でした。
中学3年生の時にはアルバイトの給金でフレーム、コンポーネントを買い揃え27×1-1/4のタイヤをはいた愛車を一台自分で組み上げました。
高校生になってからはロードレーサーとトラックレーサーを自分で組立まして自転車競技に夢中になりました。この競技用車両によりチューブラータイヤの軽い走行感を初めて経験しました。
バンク(競輪場)の独特な加速感、スピード感はロードコースでは味わえない特別な経験でした。自転車競技で京都府代表として国体に参加していますがこれは大きな声で言える話ではございません。
あの頃は自転車競技者人口が少なく、予選はあったものの競争率は低かったというのが事実であります。
高校を卒業後いったんは民間企業に就職しましたが自転車に係わって仕事がしたいという気持ちを抑えきれずその会社を退職しまして、当時千葉県柏市にありました「3RENSHO」というブランドのハンドメイドスポーツサイクルを造っていたシクロウネという会社で働き始めました。
3RENSHOは競輪選手向けトラックレーシングフレームとアマチュア競技選手用フレームで、そういう方々からご注文をいただいたり出来上がったカスタムメイドフレームを自転車に組み上げるという日々を送りました。シクロウネの創始者、今野義氏の薫陶を受けることができましたのはたいへん貴重な経験となりました。
その頃の工場長が現在エム、マキノサイクルファクトリー社長の牧野政彦氏であり思えば長いお付き合いをしていただいております。
シクロウネでの約5年間の見習いを終え、1984年(昭和59年)秋に京都へ戻りその12月に京都市上京区寺町通丸太町にてサイクルショップを開業しました。
マウンテンバイクやトライアスロンという言葉が聞こえ始めてきた頃です。第一回全日本トライアスロン宮古島大会は1985年4月に開催されています。
その6月にはアイアンマン・ジャパン・インびわ湖が滋賀県の彦根を中心に開催されました。お隣の滋賀県で記念すべき第一回のアイアンマンが開催されるとなればとりあえずエントリーしないわけにはいかない、ということで申し込みましたら参加受理していただきました。
大会当日までの数ヶ月間、水泳とランニングを付け焼き刃でトレーニングしたもののやはり付け焼き刃では切れ味わるくランニングを20kmほどのこして無念のリタイヤとなりました。
無念ではありましたが良い経験になり約10年間トライスロンを楽しみましたがリタイヤはこの1回のみです。
メカニックとしては、アイアンマンの世界選手権であります、IRONMAN TRIATHLON WORLD CHAMPIONSHIP IN HAWAIIにおきましてはメカニックサービスのお手伝いを2回経験しております。
仕事としてだけではなく、トライアスロン、マウンテンバイク、ロードレース等への参加をお客様と楽しませていただきながら月日は流れ、いつしか当時毎年8月の最終日曜日に開催されていました「全日本マウンテンサイクリングイン 乗鞍」が年に一度のイベント参加になりました。
毎週のようにお客様と北山走っていたおかげかたくさんのお客様や私も入賞させていただくことがありました。
乗鞍参加がちょうど10回をむかえた頃でした。峠を多く含む練習コースを好んで走っていたことが原因かどうかはわかりませんが腰を痛めてしまいました。
しばらくロードレーサーに乗れない日が続きましたが、深い前傾姿勢とらず、きつい上り坂でなければ乗ることができましたのでロードレーサーのドロップハンドルをアップハンドルに付け替えて乗り始めました。
実はそういうモデルをご愛用のお客様がすでにおられましてずいぶんと楽しそうに走っておられたのを思い出し参考にさせていただきました。
アップハンドルを装着しますと外観から受ける印象はスポーツ車らしくなくってしまいますが走りの基本となりますフレームやホイールをはじめハンドル以外はロードレーサーですから前傾姿勢が浅めになること以外、
走行感覚は軽快で楽しいロードレーサーです。以後大会やイベントに参加することはなくなりましたがアップハンドルのスポーツサイクルでサイクリングを楽しんでいます。
おかげさまで営業年数が10年、20年と年数を重ね手狭になってきたことを感じ店舗移転を考えはじめましてようやく営業29年目に移転、2013年9月1日より現在の場所で営業させていただいております。